すずめの戸締まりの考察

『すずめの戸締まり』で多くの人が疑問を持つであろう

日本の古典【古事記】とすずめの戸締まりの関係性

「君の名は」と「すずめの戸締まり」の関係性

主人公(岩戸鈴芽)の持つ使命とは

これらに重点をおいて

私の考察を書こうと思います

古事記から見る「すずめの戸締まり」

古事記の「天の岩戸締まり」が

「すずめの戸締まり」のモチーフに

なっているのではないかと考えられます

古事記の「天の岩戸締まり」のあらすじを言うと

『アマテラスという最高神の神様が

天の高原を治めていました。

しかし、弟であるスサノオが大暴れします

(スサノオが大暴れしたのは

意図があって暴れた、という解釈もありますが

話が逸れるのでそれは別のところで)

困ったアマテラスは

巨大な岩戸の奥にお隠れになってしまいます

太陽神をなくしてしまったために

世界は真っ暗になり、夜が続くようになります

アマテラスがいなくなった世界では

災いが起こるようになります

天高原は大混乱に陥ります

そこで何とかして

アマテラスに岩戸から出てきてもらおうと

八百万の神々は話し合いをします

その会議で決まった作戦は

オモイカネという神様の発案した

岩戸の前で祭りをするというものでした

そこで活躍するのが

『アメノウズメノミコト』です

この神様が主人公(鈴芽)のモチーフだと考えられます

アメノウズメノミコトは踊りが得意な神様で

岩戸の前で舞を舞います

この優雅で明るい踊りに八百万の神々は

まるで花が咲くように笑います

すると、岩戸の奥にいるアマテラスが

「なぜ私がいないのに外はなぜ盛り上がっているのだろう?」

と疑問に思い

そっと外に顔を出します

そこを怪力の神のアメノタヂカラオが引っ張り出します

作戦は大成功でした

アマテラスが岩戸から出てきて

高天原に光が蘇りました』

これが古事記の『天の岩戸締まり』です

この前提知識があると

以下のように考えることができます

ダイジン→アマテラスをモチーフにした神

主人公:鈴芽→アメノウズメノミコト

草太→オモイカネとアメノタヂカラオ

現代人→スサノオ

では章を変えて

ダイジンから見ていきましょう!!

ダイジンの示す神の存在

ダイジンというキャラクターが

「なんですずめの事をあんなに好きだったん?」

「結局味方やったん??」

そう思った人は多いのではないでしょうか

ダイジンはただの猫ではないですから

普通の猫としてダイジンの事を見ると

ダイジンの行動はなかなか理解できないでしょう

しかし、先ほど古事記と照らし合わせると

ダイジンは神さまとしての存在なのが分かります

つまり

普通の猫でなく

神様であるから

鈴芽の事を過度に好きになっていたのであり

鈴芽や草太はダイジンのことが理解ができなかった

という事なのです

この理解することが出来ない

想像の斜め上を行くのが

ダイジンの存在です。

このなかなか理解できないところを

次章から少しずつ紐解いてみましょう!

ダイジンの特徴

では、どうすればダイジンの行動を

理解することができるのでしょうか

ダイジンを理解する上で最も重要なのが

ダイジンのガリガリの姿とふっくらとした姿

の変化

だと考えています

敢えて、分かりやすく

急に太ったり、痩せたりしていた

そう思いませんか?

これは敢えて疑問点を投げかけている

そう捉えるのが適切でしょう

最初にダイジンが現れた時は

ガリガリの状態でした

それを見かけた鈴芽が餌を与えると

ふっくらとした状態になりました

その後はふっくらとした状態が続きますが

草太が要石に変化した後の

鈴芽の冷たい一言で

再びガリガリの状態に戻ります

つまりダイジンの状態の変化には

『人に気をかけてもらえるか否か』

が関わっているということなのです

つまり、最初に出てくるダイジンのガリガリの姿は

ダイジンが人に気をかけて貰えなくなった

神様が人に愛されなくなった

神様が畏敬の念を持って接せられなくなった

という事を暗示しているのではないでしょうか

日本全体から『神に対する畏敬の念の消失』

テーマがだんだん大きくなってきましたね…。

ダイジンが要石になるのを拒否した理由

草太がダイジンに

「要石に戻れ!」

というシーンがあります。

それに対してダイジンは拒否します

そこに詳しい理由は述べられていません

ダイジンが要石に戻るのを拒否した理由として考えられるのは

①人から気をかけて貰えなくなり、要石としての仕事を放棄したくなったから

②要石の位置を変えるため

こんなところでしょうか

物語は終始

ダイジンが要石になるのを拒否した理由を

①の理由として進めています

主人公の鈴芽も草太も

ダイジンを役割放棄をしたダメなヤツとして

ダイジンを扱います

そのようなことから我々にダイジンは

「要石としての働きを突如放棄した神様」

といったイメージを抱かせます

そして

あたかもダイジンが悪さをしているように

ダイジンが行く先々で危険が生まれます

(小悪魔的、理解ができない

といった特徴を演出するのに猫が適任だったんでしょうね笑)

しかし、この見方は本当に正しいのでしょうか?

私は②の理由

つまり『要石の位置の変更』が

ダイジンが要石としての役割を

一時的に放棄した理由だと思っています

それは物語の中盤に出てくる

草太の家の古典から明らかになります

「要石の位置は時代によって何度も変えられてきている」

という事がその古典から分かります

つまり

「時代に応じて最も適切な位置に

要石は場所を変えられてきていた」

という事なのです

この事が物語の中盤に分かることで

序盤に理解できなかった

ダイジンの行動が少しずつ

理解できるようにちゃんと仕込まれていたのです

また草太の祖父のダイジンに対する接し方からも

ダイジンがただのわがままな神様でないのは明らかです

神様について詳しい草太の祖父が

ダイジンに対して畏敬の念を持っていたところからも

ダイジンが何らかの意図を持って

要石である事を放棄した

そう考えるのが適切ではないでしょうか

ダイジンは当初要石になる気はなかった

最終的には九州にあった要石から

位置を変えて東北の方で自ら要石になるダイジンですが

当初は

『要石に再びなる気はなかった』

という風に推測しています

先ほども言ったように

人間に気をかけて貰えなくなって

ガリガリに痩せていたダイジン

唯一心を開いたのは鈴芽だけです

相対的に

ダイジンに感謝や畏敬の念を示していなかった

草太に対する当たりはどうだったでしょうか

草太を幼児用の椅子に姿を変えて

要石にしてしまいます

つまり

自分が要石になるのではなく

草太を次の要石にしようとしていた

のではないでしょうか

その事は草太も自覚していて

自分が要石になるために

姿を変えられたと分かるシーンが出てきます

また草太の祖父も

鈴芽が草太を元の姿に戻そうとすると

「草太の気持ちを無駄にするのか!」(正確に言葉覚えてません。すみません)

と一喝しました

仮に草太の祖父が

草太を深いところで理解していて

ダイジンの事を理解している人物である

と考えれば

草太が要石になるのが

ダイジンの中での理想である

そう考えられます

ダイジンが神様である以上多弁ではないので

草太の祖父が代弁してると考えるのが適切でしょう

鈴芽とアメノウズメノミコトのシンクロ性

古事記ではアメノウズメノミコトが

アマテラスの心を変えることで世界に平和をもたらしました

では、主人公の鈴芽は何を変えたのでしょうか

それは

ダイジンの心でしょう

先ほども述べた通り

ダイジンは再び要石になるつもりはなかったのです

これを変えるのが鈴芽の天命だと言えそうです

アメノウズメノミコト⇨アマテラス

岩戸鈴芽⇨ダイジン

気付いてる人は多いとは思いますが

鈴芽の苗字は岩戸です

明らかに「天の岩戸隠れ」を意識してます

また

鈴芽はアメノウズメノミコトの

『ウズメ』が由来でしょう

アメノウズメノミコトの現代版が岩戸鈴芽であり

すずめの戸締まりは現代版の天の岩戸隠れ

と言えそうです

ダイジンの心の変化

ダイジンの心の変わりは

外見に表れていると思います。

先ほども言いましたが

ガリガリの姿かふっくらとした姿なのかが

ダイジンの心を表しています

草太が要石になってしまったことで

心を乱した鈴芽の一言によって

再びダイジンは

ガリガリの姿になってしまいます

つまり、ふっくらとした姿に再びダイジンを戻すことが

ダイジンに再び要石になってもらうためには

最低条件でしょう

一応最後の東北の実家の扉を開く前に

ダイジンが災いが起きるところに

主人公たちを導いていたことに鈴芽が気付きます

そしてお礼を言うシーンがありました

そうしてダイジンはふっくらとした姿に戻ります

しかし、この状態ではまだダイジンが

「再び要石に戻ろう」

と思っていたかどうかは分かりません。

恐らくまだ

要石に戻ろうとは思っていなかったのではないでしょうか

ダイジンの心を変えた鈴芽の草太への想い

正直なところ

最後のシーンは感動的なので

文章で書き起こしたくない気持ちがあります泣

(言葉で一言で言い表せない気持ちがあるんです)

しかし、一応ブログとして書いてるので

避けては通れない道です

一言で言うなら

『鈴芽の草太への想い』

がダイジンの心を変えたと言えそうです

その気持ちに心を打たれて

ダイジンは再び

要石へと変わります

まさにアメノウズメノミコトがアマテラスの心を動かしたのと

そっくりです

これが岩戸鈴芽の名前が暗示していたこと

そう言えそうです

ただ鈴芽の草太への想いというは

側から見たら不思議に思えます

すれ違っただけの男の人を追いかけ

「君は家に帰れ」と草太に言われても帰らない

ここまで固執するのは少し(?)異様に見えそうです

ではなぜここまで鈴芽は草太に

気持ちを寄せることができたのでしょうか

次章で詳しく見ていきましょう

「君の名は」と「すずめの戸締まり」の関係性

なぜ鈴芽は草太に対して

すぐに心を開くことができたのでしょうか

その理由は

「運命の人だったからです」

運命を強く感じる人だったから鈴芽は

草太に対してあそこまで強く心を寄せていたのです

最初に草太と鈴芽が出会うシーンがあります

あの坂道での出会いです

あのシーンを見て何か思い出しませんでしたか?

私は「君の名」はでの三葉と滝の出会いのシーンに

酷似してるように思えました

「君の名は」が映画を通して言いたかったのは

「運命の人の存在」であると思っています

(君の名はのテーマについてはここでは深くは語りません)

運命の人がどんな存在であるかを

長々と映画で「君の名は」は描いていたのを

「すずめの戸締まり」では

「君の名は」のワンシーンと似せることで

多くを語らずに運命の人との出会いであることを

暗示しているのだと考えられます

また主題歌でも草太と鈴芽の出会いが

運命の出会いであることが窺えます

歌詞から見る鈴芽と草太の運命の出会い

なんで泣いてるのと聞かれ

答えれる涙なんかじゃ

僕ら出会えたことの意味には

まるで追いつかない

この身ひとつじゃ足りない叫び

君の手に触れたときにだけ

震えた心があったよ

意味をいくつ越えれば

僕らはたどり着けるのかな

愚かさでいい

醜さでいい

正しさのその先で

君と手を取り合いたい

思い出せない 大切な記憶

言葉にならない ここにある想い

もしかしたら もしかしたら

それだけでこの心はできている

この歌詞の雄大さよ

この涙は

なんで泣いているのか聞かれて

答えられるようなものではないと言っているのです

筆舌に尽くしがたいものが

この涙にはあると言っているのです

この涙を齎した(もたらした)この出会いは説明が出来ない

つまり、言葉では説明が出来ない程の

人智を超えたものがこの涙にはあると言っているのです

輪廻転生を何度も繰り返す中で

ようやく出会えたこの想いと言うのは

一言で言い表すことは出来ない

そしてその運命の出会いと言うのは

感覚を持ってして分かる

つまり、頭でいくら考えても分からない出会いである

と言うのが

君の手に触れることで

直感的にわかったと言うのです

その直感を齎すものは

前世の記憶や前前世の僅かでかすかな大切にしていた記憶

だと言っているように感じます

そして、その微かで大切な記憶は言葉では

言い表すことができないのです

このような

かすかで曖昧で僅かな記憶だけども

自分の心の大部分を占めているのは

そのようなものだと言っているように思えます

歌詞を鈴芽と草太の関係に照らし合わせる

これを鈴芽と草太の関係に照らし合わせると

鈴芽の気持ち、想いが先ずこの歌詞になっている

そう考えるのが妥当でしょう

強いて言葉にするなら鈴芽が草太に出会った時の心情は

「なぜか説明はできないが

草太は間違いなく

何度も繰り返す生まれ変わりの中で

出会いたいと思っていた人物であり

その出会いと言うのは人生で最も大切なもので

その人にようやく出会えた」

といったところではないでしょうか

(この心情は説明できるようなものではないと言ってますが…。)

鈴芽と草太の前世を考えてみる

鈴芽と草太は運命の出会いだったのですが

運命の出会いだったと言うことは前世や前前世で繋がりがあった

そう考えるのが自然に思えます

全く持って描かれていないので妄想は

先行してしまいますが

何度もあった要石の変更に

鈴芽と草太の前世も関わっていたのではないでしょうか

そう考えるのには理由があって

また話は「君の名は」の方に行きますが

「君の名は」ティアマイト彗星の衝突から街を守る話です

ティアマト彗星は1200年周期で太陽系を回っている彗星です

糸守町は過去に2回(映画と合わせて3回)隕石が落ちています

なんでわざわざ何回も彗星が同じ街に落ちるような設定にしたのでしょう

それは

何度も繰り返す人生の中で

人は同じようなことを繰り返している

事を言いたいのではないかと考えています

糸守町を何度も何度も

繰り返す輪廻転生の中で何度でも救う

そう言う天命にあったのが三葉と滝であったのです

その天命を自覚させるのが微かな記憶であったり

ただならぬ程に強い直感なのです

今回の「すずめの戸締まり」も

ティアマト彗星が何度も糸守町に衝突しているように

要石を何度も地震に応じて移動させてきた歴史が描かれています

鈴芽と草太の前世も

要石の位置変更に携わっていそうですね

終わりに

実を言うと

・穢れと神様の関係性

・四次元の存在(あの世)と現世

についても書こうと思っていたのだが

字数も10,000語に到達してしまいそうだということに気付いて

また別のページに書くことにしたので

気になる人はまた読みに来て欲しいと思っています

私は普段は映画は見ないし

見たとしてもブログなんて書くような性格ではない

しかし、今回の映画は私にとって

大きな意義があったように思えてならなかったのです

映画を見てここまで感動するとは思わなくて

(泣いちゃった)

この感動が消えないうちに

ブログか何かに書き起こさないとならない

そう言うある種の危機感を持って書きました

心が揺さぶられる経験というのは人生を通して

なかなか得られるものではないでしょう

少なくとも

私が普段映画や小説を読まないというのもありますが

感動の初心というのは胸に深く刻み込まなければ

ならないと思っているのです

感動の初心に何度も思いを馳せることで

心の清浄さ、神聖さを少しでも保つことが出来れば

自分の心は日々改まり

志(天命)といったものが

見えてくるのではないか

そう言った淡い期待が

私がブログを書く原動力になっていました

心を揺さぶられるというのは

美しさを感じることに等しいと私は考えてます

当然ですが、汚いものを見て感動はしないでしょう

必ず心が揺さぶられる背後には

美しさがあると思うのです

その美的感覚を大切にしていくことが

自分の天命を知る一助になるに違いないと思っています

そう考えるのには理由があります

その前に前提知識として

フラクタルの話をさせて下さい

フラクタルというのは数学の相似関係を

想像してくれると分かりやすいと思います

この世界はフラクタル構造で出来ています

(信じられない人もいるとは思いますが

そういう考えもあるんだと言った具合に聞いて下さい)

このフラクタルというのは

いろいろな局面で見られます

例えば

黄金比率はその最たる例でしょう

人間が美しいと感じる比率を持ったものが

大小を超えてさまざまな局面に出てきます

大きなもので言えば、銀河の渦

逆に小さなものはカタツムリの殻にまで

黄金比が適用されています

人の美的感性には法則がある

と言うことの発見です

つまり

何が言いたいかというと

黄金比率が示すように

世の中はフラクタルが基本であり

宇宙の摂理が

地球の法則であり

地球の法則(つまりは世界の法則)が日本の法則であり

日本の法則は自治体の法則であり

自治体の法則というのは人の法則なのです

宇宙の星々の持つ法則と

私たち人間の持つ法則は

まさに等しいのです

物凄くちっぽけに思える

たった一人の人間ですが

たった一人の人間は宇宙の摂理を受け継いだ

偉大な一人であるのです

(大袈裟な話をしている訳ではないですよ

私は至って真面目に言ってます)

つまり

宇宙の法理法則に従った存在である私たちが

「心を揺れ動かされる」

「感動をする」

「心地よく感じる」

そういったものは

全てにおいて例外なく

宇宙の摂理に従ったものである

そう私は考えています

ですから頭でいくら考えるよりも

心で感じたもの

もっと言うと魂で感じたもの

その直感的な美しさこそが

宇宙の摂理に則った法則に繋がっているに違いない

そう強く思っています

だからこそ、感動というのは

頭の中で

理論的にそして合理的に

生み出した考えなんかよりも

遥かに大切にしなければならない

その大切にしなければならない感動

それをいつでも新鮮さを持って思い起こすこと

それはたった一人の妄想の中の世界なんかではない

宇宙の法則を理解するため

人間が宇宙の力の一端を受け継ぐ存在であり続けるため

つまり

人間が魂の持った人間として

あり続けるために必要であることに違いないのだ

魂というは宇宙に偏満する

宇宙エネルギー(ダークエネルギー)を

主としたエネルギーだと私は考えています

その宇宙の大部分を占めるダークエネルギーが

宿った存在が人間であります

(ダークエネルギーって言っても厨二病的な感じではないですよ笑)

つまり、魂で感じた感動というのは

宇宙と共鳴することであり

宇宙との調和なのです

だから私はその感動を思い起こす手段の一つとして

このブログに自分の感動の初心を書いたつもりです

もちろん私用と言っただけではないです

私の文章を読むことで

映画館での感動を思い起こす人

違った見方があることに気付いた人が

少しでもいてくれればいい

そう思って書きました

これからも定期的に

ブログは書こうと思います

時間がある時にでも

読んで欲しいと思います

では!

最後まで読んでいただきありがとうございました

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